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安全ではありません

脳内歌姫

今週のお題「私のテーマソング」
 

わりと誰にでも頭の中に「脳内歌姫」の様な存在が居るのではと思っている。俺の中のそれは「麻生さん」とか「夏海さん」と呼ばれていて、基本クールに立ち振る舞う。今「夏海さん」と漢字で書いたら岩崎夏海の顔が浮かんで暗い気持ちになったのだけど、脳内描写では黒髪ロングで、目は前髪で隠れていることが多い。

たぶん夏海は、片目の視力が良くないのだと思う。見えないのかもしれない。片目がどうとか、その眼に何か因縁めいたものがあってというのは、なんとなく漫画だったりライトノベルな印象がある。夏海はその片目を気にしているから、前髪でそれを隠している。
 
俺はかつて、一日のかなりの時間を、片目を瞑って生活していたことがある。片目を瞑ることによって入ってくる視覚情報が減り、情報処理のキャパが増えることによって人生が上手く回り出すと考えていた。実際、その状態で人と対面するとその人のことがよく見えた。見えない方の部分でその人のことを考えられるというか、余裕が持てる。ただその時は接客業だったので、客がみんな「なんでこの人は片目を瞑っているのだろう」という顔をしてきた。だから暫くしてやめた。
 
夏海は元々は脳内恋人だった。その頃は快活で、髪も短め。「冬なのに夏海!」という、さまぁ〜ずを彷彿とさせる決め台詞を持っていて、それは季節によって多少の変化を見せた。
 
夏海にはテーマソングもあった。アップテンポな曲で、冗談みたいな歌詞だった。もちろん俺が作った。なのでそれは「私のテーマソング」では無いのだけど、「私の作ったテーマソング」ではある。
 
考えてみればうちの母も自らのテーマソングを口ずさんでいた。以前にも書いたが、うちの母はUFOに連れ去られたり火の玉を目撃したりという、ややあっち系のキャラクタである。その為、自分の名を冠した「○○ちゃんのテーマ」を口ずさんでいても、それは極めてナチャラルというか、総じて「残念」という感じだった。
夏海の話だが、彼女はいつしか脳内恋人という枠に収まりきらなくなる。その快活さが影を潜めるのと同時に、天性の歌唱力が目覚める。「特別だ」と認知されることがどういう結果を招くのかに自覚的だったこともあり、その才を世に問うことを長く拒んでいた彼女だが、煌めくそれはいつしか悟られてしまうものだ。覚悟を決めるでもなく、周りに同じような才を持つ者が集まり、夏海はバンドを組むことになった。住んでいた街の名を背負ったそのバンドは、驚くほどの早さで知名度を増していく。俺は一度はそのバンドに所属したが、演奏の拙さをファンから問われ、気づくとバンドを脱退させられていた。
 
脳内恋人だったはずの彼女は髪を伸ばし、片目の視力を失い、快活さを手放すと同時に世に羽ばたいていった。今では脳内でタモリと肩を並べ酒を飲んだりしている。すっかり遠くへ行ってしまった。
彼女はもう、俺の作ったアップテンポなコミックソングを口ずさむこともない。でも、それは仕方のないことだと思う。だって、妄想だから。彼女は俺の作った幻だから。
 
夏海は「そうね」といって、俺の知らない歌を口ずさむ。その表情に寂しさの影は無い。