必需品ブログ

安全ではありません

写真とか

先日、本当に久しぶりにそれなりの人数で集まって、屋外で食事をした。屋外でする食事は良いもので、自然や野生を感じることが出来る。我々宇宙船地球号乗組員は、かつては屋外で狩りをし、火を起こすなどして生活していたのだ。生活、それは暮らしていくこと。星雲、君が見た希望。
沢山の人間が居たので、嬉々として写真を撮った。僕はスマホでしか写真を撮らない存在になってしまったが、これでいいような気がしている。きっちりした美しいものを撮りたいのであれば、やはり一眼やセンサーサイズの大きな撮影機を持つべきなのだろうが、僕が撮りたいのはそういうことではない。雰囲気とか、表情とか、そういうのだ。ハプニングとか、おかしみとか、そういうのだと思う。写真以外の趣味が段々他人の評価を気にするようになってしまい、少しだけ息苦しくなってしまった。他人の評価とか糞食らえだというメンタリティを維持しながら、他人の評価を参考にしなければならない。
人の表情を撮るのは楽しい。人の動きを撮るのも楽しいが、やはり表情だというのがある。表情に嘘がない人というのは居て、多くの場合、そういう人は激情家か、幼子だ。あるいはアルコールが入れば、僕のような表情の乏しい人間でも嘘じゃないそのツラを世に晒すことが出来る。しかし、嘘じゃない表情をした自分に自らがレンズを向ければ、それはもう嘘じゃない? でも嘘でも良くない? 綺麗な嘘が上手な写真なんじゃないの? そこは人によるのだ。でもわしも綺麗な嘘も撮りたい。
他人を撮影するということは、暴力的な行為だ。他人を撮影するためには事前のコンセンサスが必要で、大概は一瞬の感覚的なやり取りで取り付けられる。そして、撮って良いこととその集団でシェアして良いことはまた別だし、更に外のコミュニティ、SNSのような場で共有することは、基本的にはやってはいけないというのが、現在の通常の感覚になっている。ほんの2年や3年前であればそれが何とか許容される空間もあったが、駄目になった。やっている写真家のやり方が下品だったからだ。
人物がダメになった結果、多くの撮影好きは風景を撮り、無機物の配置からおかしみを見出し、人間以外の生き物から愛らしさや切なさを切り取るようになった。あるいは、自らを被写体とするか、レイヤーやアイドルといったその姿の共有が許容された偶像にレンズを向けるようになったわけで、だからネット上の人物写真に多様性が消えた、と思う。それで問題ないし、そんなこと無いのかもしれないが。
人物写真において、特に恥の中におかしみを見出せるような感覚を好む人種は、もはや自らを被写体とするしかない。少なくともアマチュアは。他人の恥の感覚は難しいし、おかしみなんて恥とか不幸と背中合わせなわけで、だからやはり他人を巻き込むべきではない。自らが道化となるべきで、演れてる人は偉いなあと思う。偉いか? 別に偉くはないか。滑稽で素敵だなと思う。
最近身体の調子がとても良く、それに伴い頭の中がすっきりしている。頭の表面にふりかけていた二種の液体の効果もあって毛量が増え、かわりに一本一本の毛髪が細くなった。細くなった毛髪は黄昏色に染まり、宇宙服のヘルメットを外した瞬間、溢れた。「必需?」「必需品さん?」周りの男達のどよめきが聞こえる。私は性器を取り外して、鼻の頭に付けた。それが、花弁の様にひらく。花弁の中の、沢山の私がいう。「撮って」。「撮って私を」。「綺麗に撮って」。僕は、自らにレンズを向けて、シャッターを、切った。

今週のお題「赤いもの」